福岡の歴史ダイジェスト

でんホームは福岡の会社です。
福岡で創業し、福岡という地域に密着し、活動をしています。

そのような背景がありますから、
福岡という地域について詳しく知っておくことが大事なのだと日々感じます。

そこで、今回、福岡の歴史という観点から、日頃ご多忙な方でも、
さっと読めて、要点を理解できるように、まとめてみました。
お役に立ちましたら、さいわいです。

旧石器時代(200万年前から1万3000年前)

そもそも、大昔の約2万年前まで、
日本はアジア大陸とは陸続きでしたので、旧石器時代の人々が日本にわたってきました。
約2万年前に地殻変動によって朝鮮半島が形成され、日本の大部分は大陸から離れました。

その時代を偲ばせるものには、たとえば化石があります。
福岡市博多区と南区の境界を流れる那珂川の上流、筑紫郡那珂川町に近い警弥郷と
老司の境界にかかる警弥郷橋の下流側50メートルの川底から1951年にナウマン象の臼歯の化石が見つかっています。

また、福岡で旧石器時代の遺物が初めて見つかったのは1958年、博多区諸岡遺跡です。
1万5000年前頃の後期旧石器時代の黒曜石のナイフ、スクレーパー、彫器などが見つかりました。
また、東区蒲田遺跡では、台形石器、細石器などが出土しています。

縄文時代(1万3000年前から紀元前300年くらい)

縄文時代(1万3000年前から紀元前300年くらい)の遺跡としては、
西区今津の大原遺跡群があり、竪穴住居4軒が確認され、土器などが出土、
南区柏原の柏原遺跡群では草創期から早期にかけての土器が出土しています。

有名な博多区の板付遺跡では、水田農業の始まりを感じられます。

弥生時代(紀元前300年から300年)

弥生時代の福岡で有名なのが、金印です。
歴史の教科書などでも取り上げられている金印は中国の文献「後漢書」によれば、
倭奴国の使者が後漢の都、洛陽に来て、光武帝から印綬を賜ったときのものだそうです。
『漢委奴国王』の五文字が彫られた金印は弥生時代に王がいた証拠になっています。

弥生時代の遺跡としては、西区の吉武高木遺跡、早良区西新町遺跡、
博多区の博多遺跡群、東区多々良込田遺跡や唐の原遺跡があります。

このように、地理的に大陸と近いことから、大陸との貿易、
文化交流の歴史があることで、弥生時代の日本の先進地であるといえます。

古墳時代(300から710年)

畿内は一つの政治勢力によって征服され、大和政権が成立します。
前方後円墳と呼ばれる墳墓が有名な古墳時代の到来です。

大和政権は北部九州を服属させ、博多湾沿岸地域を中心とする「筑紫の国」を設定、
この国を治める首長として「筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)」を置きました。

JR竹下駅の東方約500メートルのところにある博多区那珂の那珂八幡古墳は
、この古墳時代にできた前方後円墳です。
この古墳の頂上には応神天皇を祭る那珂八幡宮があります。

660年に朝鮮半島では友好国であった百済(くだら)が唐と新羅の連合軍に滅ぼされました。
そのため、女帝の斉明天皇は翌年、朝倉宮(現、朝倉郡朝倉町)に大本営を置いて、百済の再興をはかります。
しかし、悪疫流行のため、天皇はこの地で病没。
皇太子は那津(博多湾岸周辺)に本営を移し、救援しましたが、663年に白村江で新羅・唐連合軍に大敗。

敗戦の翌年、新羅・唐の来攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)を置きました。
防衛線として、海岸に近い平野では厳しいので、那津の東南10キロの隘路、
現在の水城の地に土塁を造り、前面の濠に水を蓄え、東西の山上には
大野城とき城を築いて防衛体制を固め、水城の後方、現在の都府楼跡に官府を移しました。
この官府が大宰府の起源となったようです。

幸い、白村江の戦いの翌年から、新羅・唐は友好使節を送り、
日本からも遣唐使が派遣されるようになりました。

701年の大宝令で大宰府の官制が成立し、律令制地方機構として最大の役所が誕生しました。
大宰府は奈良時代から平安時代にかけて、九州地方の中央政府といわれる性格をもつようになっていきます。

奈良・平安時代(710から1192年)

12世紀、中国では唐が滅んで宋が起こり、
朝鮮半島では新羅が滅んで高麗が起こっていました。

国内では源氏の衰退とともに、平家一門が天下を制し、九州もその勢力下に置かれました。

その流れで「袖の湊(そでのみなと)」と呼ばれる新しい博多の港ができ、
櫛田神社を中心に新しい博多の町もでき、宋商人の船が入港し、貿易を行いました。
多くの宋商人は博多に居住し、国際都市博多には、
大唐街という名で呼ばれる中国人街が形成されました。

コラム:「博多」の由来
「博多」という言葉の由来には諸説ありますが、
「土地が博く、人口が多い」あるいは「海域が博く、人口が多い」というのが有力といわれます。

鎌倉・室町時代(1192から1600年)

日本最初の禅寺、聖福寺は1195年、茶を初めて日本に持ち込んだといわれる栄西によって建立されました。
また、承天寺の開祖としても知られている聖一国師(円爾・えんに)の創始と伝えられているのが博多の祇園山笠です。

博多津に疫病が流行した時、円爾は櫛田神社で祈祷した聖水を奉じて、
町民が担ぐ施餓飢棚(せがきだな)に乗り、聖水を町中に振りまいて、疫病をおさめました。
博多山笠の最終日に追い山笠を承天寺にかつぎこむのは、円爾へのお礼参りとされています。

鎌倉時代、チンギス汗(皇帝)はアジア大陸からヨーロッパにまたがる大帝国をつくりました。
1260年に汗位についたフビライは高麗を侵略、属国としました。
フビライは再三、臣従を要求する国書を送ってきました。
時の幕府の執権、北条時宗はこれを無視するとともに、防衛体制を固めます。

国号を元と改めた蒙古の軍隊は1274年10月5日、対馬を侵略、
ついで10月14日に壱岐を侵略、10月19日に3万数千の軍勢を乗せた軍船900が博多湾にあらわれました。
翌20日、室見河口から百道海岸にかけて上陸を開始、前進部隊は赤坂に進出、
主力軍は博多の港に上陸し、戦闘。敵の一部隊は箱崎に進み、箱崎八幡宮も焼け落ちました。

元軍の集団戦法と火薬に対して、九州の武士は一騎突入をくりかえしたため苦戦を強いられ、敗退。
ついに博多を放棄して水城を防衛線と定め、大宰府まで退却することになりました。

一方的に優勢な戦いを進めていた元軍でしたが、副将軍が矢にあたって重傷を負ったためか、
日没後軍船に引き上げ、博多湾を出て帰還の海路につきましたところがその夜半、
玄界灘の突風に遭遇して多くの軍船は難破。大損害と多数の溺死者を出しました。「元寇」です。

文永の役のあと、幕府は防備のため博多湾沿岸に「石築地(いしついじ)」を築くという計画を考えました。
香椎浜から箱崎、博多、荒津、百道、姪浜、生の松原、横浜、今津長浜、柑子岳(こうじだけ)の麓まで、高さ約3メートルの石塁、元寇防塁ができました。

1275年、はやくもフビライは5人の使者を日本に遣わし、屈服を求めました。
北条時宗は鎌倉で使者の首をはね、断固対決の姿勢を示しました。
幕府は事態を重視し、北条実政らを博多に派遣し、鷲尾山(現在の愛宕山)に城を築き、防衛を強化しました。

1281年、総兵力14万を越える大軍が攻めてきました。
兵力4万の東路軍と兵力10万の江南軍の2軍での出陣です。

東路軍がまず博多湾に入り、志賀島と能古島の間に停泊して、陣を張りました。
わが軍は小舟に乗って焼き討ち、切り込みを繰り返し、上陸を阻み、東路軍は上陸できませんでした。
この敗戦に加え、軍中に悪疫が流行、多数の病兵が出る状況となり、主力の江南軍の到着を待ちます。

江南軍がようやく到着し、合流して博多に向かって4000艘を越える大船団出発
というときに、暴風雨となり、壊滅状態になりました。
わが軍は残敵掃討を容赦なく行ったため、4000余の兵船のうち残ったのはわずか200ほどで、
14万のうち本国に逃げ帰ったものは3万3000人だったといわれています。

鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府になります。
室町時代、1429年ごろ、外交貿易の独占をねらう将軍、足利義教が
筑前国を御料国(幕府直轄国)と定め、大内盛見を代官に指名してきました。

そのため、北部九州では、博多を中心に、周防の大内氏、豊後の大友氏、筑前の少弐氏らの武力抗争が続きます。

1431年、大内氏の軍勢は、大友氏の軍事拠点、立花新城(東区)を陥落させたものの、
つづく少弐満貞・大友持直らとの戦いでは(いと)郡荻原(糸島市)で総大将の大内盛見自身が戦死し、
一時は豊前国からの撤退を余儀なくされる状態でした。

しかし、盛見の後継争いを制した大内持世が少弐満貞を秋月城で敗死させ、
大内氏のもと、豊前・筑前両国を平定し、大内氏の支配を続けました。

しかし、1557年に大内義長が毛利元就によって滅ぼされると、
大友義鎮(宗麟)はすかさず兵を送り、豊前・筑前・肥前を平定、北部九州の覇者となりました。
ただ、1578年、大友義統が島津氏に大敗を喫し、服従していた国人が離反。
親大友・反大友が入り乱れて、群雄割拠の状態。筑後には肥前の龍造寺隆信の勢力が攻めてきます。
また、南からは島津氏が攻めてきます。

ついに1587年、大友宗麟の救援要請を受けた豊臣秀吉がみずから20万の軍勢を率いて九州に出陣。
島津氏は降伏。九州平定となります。
秀吉は箱崎で博多商人神屋宗湛らに会い、度重なる戦火にあい、荒れ果てた博多再興の町割りを行いました。

また、秀吉は九州平定に伴う論功行賞を行い、立花宗茂は柳川藩13万石の大名となり、
小早川隆景は筑前52万石を領し、多々良川河口の突端の地、名島に城を築いて名島城城主となりました。

ちなみに小早川隆景は、中国地方に広大な勢力を誇った戦国大名、毛利元就の三男で、小早川家を相続した人です。
隆景は、いわゆる三本の矢で有名な毛利三兄弟のひとりです。

秀吉の死後、1600年に関ヶ原の戦いが起こります。
この戦いで、筑前国名島の小早川秀秋は当初西軍の石田三成方に加わりましたが、
途中で東軍に寝返り、徳川家康方勝利のきっかけをつくりました。
これを評価され、加増を受けて、備前国岡山に移ります。
秀秋の旧領である筑前には、豊前国中津の黒田長政が加増されて移りました。

コラム「中世の博多」
16世紀中葉、大内氏が滅亡し、博多は大友氏の一元的支配の下にありました。
そのころ、大友氏の家臣、臼杵安房守(うすきあわのかみ)が、
博多と箱崎は陸続きであったのを、それまで博多の南側を流れていた三笠川(比恵川)をつけかえて、
まっすぐ海にむけて人工の川(石堂川)をとおし、南側には防御のために堀(房州堀)を設けたそうです。

大友氏の下、博多は四方を川、海、堀で囲まれた要塞都市としたのです。
南北は博多駅のやや北にあった堀と北方の海、
東西は石堂川と那珂川、その内側が博多であったわけです。

コラム「吉塚の由来」
博多区にある吉塚。この場所の地名は、中世にあった出来事に由来しているといわれています。
1586年、南九州から島津義久が大軍で北上。
岩屋城の高橋紹運を攻めて落城させ、立花山山頂の立花城を攻撃しましたが、
城将、立花宗茂(高橋紹運の長子)は固守して、豊臣秀吉の救援を待ちました。
秀吉は毛利輝元に豊後の島津勢を攻撃させたため、義久は立花城攻略をあきらめ、
撤退の際には博多の町を焼き払い、粕屋郡の高鳥井城に星野吉実、吉兼の兄弟を置き、帰国しました。

立花宗茂は父の仇を討つべく、高鳥井城を攻め、星野吉実、吉兼を敗死させました。
その時、この兄弟の首級を埋めた縁で生じた地名が「吉塚」といわれています。

江戸時代(1600から1867年)

関ヶ原の合戦で大功をたてた黒田孝高(くろだよしたか・黒田如水・黒田官兵衛)と
黒田長政父子は豊前中津藩12万石から一挙に筑前52万石へ加増移封となりました。
福岡藩(黒田藩)の成立です。

居城については、名島城は土地が狭くふさわしくないとして、
適地を検討、警固村福崎の地が選ばれ、新しい城が築かれました。

城地の西の入り海は荒戸付近を埋め立てて侍屋敷とし、
博多湾と分離させて、大堀(大濠)としました。

城を海側から眺めると、鶴が両翼をひろげて舞っている姿に似ているので舞鶴城と呼ばれました。

また、この城は黒田孝高の曾祖父、祖父、父が備前国福岡(現岡山県長船町福岡)に
居住していたのにちなみ、福崎の崎を岡に改め、地名を福岡としたことにより、
福岡城と名付けられました。

福岡城は長政以降12代、270年にわたる藩政の中心となります。

福岡の城下町は那珂川をはさんで町人の町博多と相対します。
黒田藩重臣の屋敷は城内にあり、藩士らの屋敷を含む城下町は、
堀をへだてて北の博多湾の干潟を埋め立てた東西に長い土地につくられました。

藩士らの住居は、大手門前の堀端から東方の大名町と天神町にかけて
上級藩士の屋敷が連なり、荒戸町一帯、南方の浪人谷などの丘陵地、
西方の地行や西新付近などにも広がっていました。

また、これらの武家の生活を支えるため、町人や職人の町もつくられ、
本町を中心に、東に呉服町、名島町、橋口町、西に大工町、簀子町とつづき、
これを六町筋、六町通とよびました。

城下町には防衛のため、鍵形の曲がり道や丁字道をつくりました。
曲がり道の跡は、現在の昭和通りや明治通りの屈曲に残っています。

また、黒田長政は築城に際し、城の最尖端防衛線である外郭を、
東は博多の町と那珂郡との境界線を流れる御笠川西岸に設定し、
外郭内となった西岸の人々を東岸の那珂郡堅粕村に強制移住させました。

さらに福岡藩の軍事的防衛線として、西の博多側には多くの寺と墓地を配することで、
略の防御線としたのです。
要所には後に砲台となる築地を築きました。
さらに博多町の西にある那珂川に強固な石垣を築きます。
このように黒田長政は福岡城、城下町福岡の防御策をとっていったのです。

明治・大正時代(1876から1926年)

明治維新を経て、1888年に市町村制ができ、1889年に福岡市が誕生します。
商人の町博多と、城下町福岡が合体して一つの市となったのです。
発足当時の市域面積は約5平方キロ、人口は5万847人でした。

明治・大正時代の海岸線は江戸時代末期とほぼ同様で、海岸線の位置は、
現在の大手門三丁目の簀子小学校の中心から東へ、浜の町公園の中心、
あいれふ前、長浜公園の南側を経て、須崎公園の西端にいたる道路に沿っていました。

昭和・平成時代(1926年から現在)

その後、都市として発展していった福岡ですが、第二次世界大戦という経験をします。

戦局の悪化に伴い、空襲が予測されるようになると、都会の強制疎開が始まります。
建物疎開を命じられ、住民は引っ越しを強いられ、民家は取り壊されます。

現在の福岡市の石堂大橋(呉服町)から大濠公園にいたる東西の昭和通りは、
この疎開あとを利用した道路です。

1945年に空襲は激化し、6月19日から20日にかけてB29爆撃機200余機の焼夷弾攻撃を受けます。
全市は火に包まれ、一夜明けた福岡の町は、中心部の大半と郊外の一部が焦土と化していました。
そして、時代は終戦を迎えます。

戦後間もなく、1946年10月に綱場町と新天町が店を開きます。
そうして、復興を遂げていくのです。
その後、戦後の高度経済成長、バブル、バブル崩壊を経て、現在に至るというわけです。

以上のような流れが、福岡市の歴史といえます。

部分部分には、諸説あるところもありますので、
不正確な部分もあるかと存じますが、なにとぞ、ご容赦いただければと思います。

ありがとうございます。

『博多湾と福岡の歴史』白水晴雄(著)梓書院
福岡県の歴史』川添昭二ほか(著)山川出版社
福岡県の歴史』平野邦雄ほか(著)山川出版社
福岡城天守は四層(四重)か』荻野忠行(著)梓書院