日本の台所の歴史

日本の住宅史をたどると、台所が何度かの変遷を経て、
現在に至っていることがわかります。
そもそも、台所は、現在と同じように、食事をつくる場所でした。

作業場としての台所

古くは、竪穴住居の時代、中心に据えられた「炉」で炊事をしていました。
それが壁側に移動し、炊事場となりました。
そこから長い間、台所は作業場という扱いを受けることとなったのです。

当然、時間の経過とともに、多少の変化はありました。
室内は板床が張られるようになった一方で、台所は張られず、
土間と呼ばれるスペースとして扱われることになります。

上層階級の住宅では、台所は家族のスペースではなく、
女中のスペース、つまり、使用人のスペースとして扱われていました。

この流れは、戦前まで続くことになります。
もちろん、古代から江戸時代に至るまで、一般庶民の住宅では、
台所は土間であり、土の上でしゃがんで炊事をする作業場であり続けたのです。

しゃがみ仕事から、立ち仕事へ

現代に続く変化が起こったのは、大正時代のこと。
家政学の立場から調理がとりあげられるようになり、
立働式(たちばたらきしき)ときょざ式(しゃがみしき)の是非が論じられるようになりました。
そのため、大正時代の末ごろになると、台所に板床を張り、
立って仕事をする形式が、建築家が設計した住宅に定着するようになります。

同じく、大正時代には、茶の間の位置が変化します。
家族が集まり、食事をし、語り合う場である茶の間。

明治時代には、台所に近い北側に位置するのが普通でした。
しかし、大正時代に入ると、家族本位の考え方が広まり、南向きに位置するような例が増えてきました。
もちろん、南面する最もよい部屋は座敷であり、客人をもてなす様式を継続していました。

台所の分離

戦後まで、日本の住宅では、台所は中廊下の北側に位置していることが多くありました。
それは、台所が依然として作業場である要素が強かったことに加え、
家事労働の主体が女中となっており、さらには、食料を貯えるにも
南面の暖かい部屋は好ましくなかったからです。
しかし、戦後、家事労働の主体が主婦に変わったことで、変化が生まれてきました。

東京大学の建築学科吉武研究室により、昭和26年に設計された標準設計51C型で、
公営住宅にダイニングキッチン(DK)が登場します。

ダイニングキッチン(DK)は、食事室を椅子式にして独立させるようにし、
その中に台所を取り込んだものです。

このダイニングキッチン(DK)の背景にあったのは、食寝分離という思想です。
食事をつくり、食事をする空間と寝室という寝るための空間を分離させ、
生活を秩序づけようとする思想にもとづいた様式だったのです。

食寝分離という思想

食寝分離という思想は、この時代にはじめて現れたものではありません。
歴史上、この食寝分離という思想は根底に流れていた思想でありました。

そもそもは、土間と板床による分離。
これによって、食寝分離という思想は実現していました。

上流階級の住宅では、台所が分離していたケースもありますから、
その形態をもって、食寝分離という思想は体現されていたのです。

台所に板床が張られるようになり、土間というかたちでの分離が
なされなくなってからも、「位置」によって分離が図られることになりました。

戦後までの日本の住宅では、台所は中廊下の北側に位置していることが多くありました。
それは、中廊下を境界として、食寝分離が実現されていたからです。

そのような流れで登場したのが、ダイニングキッチン(DK)でした。
つまり、このダイニングキッチン(DK)は、台所と食事室の空間を一体にすることによって、
少ない面積でも食寝の分離が実現できるように生み出された、合理的な解決策だったのです。

台所と食事室が一体に

ただ、台所の位置としては、北側という従来的な考えが一般的でした。
それは、台所に太陽の光が差し込むと、食品が腐ってしまうからです。
加えて、従来、使用されていた流し台が、木製であったことも問題のひとつでした。

これらの流れに変化が起こったのが、ステンレス一体整形の流しの普及。
そして、電気冷蔵庫の普及です。1950年代後半(昭和30年代)からの高度成長時代に、
電気冷蔵庫が普及していくようになり、公団住宅だけでなく、独立住宅にまでダイニングキッチン(DK)、
つまりは、台所が南面する最もよい位置に定着するようになります。

そのような流れ・歴史を経て、現在の台所の姿があるのです。