ぎっくり腰と少年ジャンプから幸せを考えてみた

以前のブログで、ぎっくり腰になったことについてお話しました。

あまりにも腰が痛いので、安静にしておこうと予定をすべて白紙にさせていただき、寝たきり状態に突入。

その前に、買い出しに行ったところ、週刊少年ジャンプを発見。
最近は立ち読みばかりで、めったに買ってなかったのですが(すみません)、今回はベッドで読もうということで購入。

ひさしぶりにHUNTER×HUNTER(ハンターハンター)というマンガが再開されていました。

そこにあった画で、貧富の格差や独裁国家などの人間の残酷な側面を描いたものがありました。

私は、ぎっくり腰とこの画をみて、ちょっと幸せとは何なのか?人生とは何なのか?と考えこんでしまいました。

マンガから、幸せや人生について考え込む

ぎっくり腰になった気づく、健康の大事さ。
いつもあるものだから、ついついその大事さを忘れがちになってしまいます。
改めて、そのありがたみを感じさせてもらいました。

その一方では、ハンターハンターの画のように、
どんなに努力しても健康的な生活のできない人々が、現在も、世の中にはいます

たとえば、アフリカの諸国といった国に生まれた人々です。

絶対的な貧困の下で、教育も受けることができず、
ただ単に生まれた環境がそうであったというだけで絶望的な状況にいる人たちもいます。

また、独裁国家の下で生きる一般の人たちもそうです。
独裁者の考えひとつで人生を左右されてしまう。
命を奪われることも当然のごとくあるわけです。

こういう思索にふけっていると、今の日本はたしかに悲壮感が漂っている、
沈滞ムードではありますが、ほとんどの人が健康的な生活を送ることができます。

また、理不尽に命を奪われることもほとんどありません。

さらに努力次第では、富を得ることも、大きな仕事をすることも、国家運営に関わることもできるわけです。

そういう面で、すでに大きな幸せのなかにいると感じるのです

富と貧しさについての考察

加えて感じたのは、富と貧しさについてです。

富と貧しさと書くと、たとえば、富を持つものがエラい、富を持つものはロクでもない、という考えや、
貧しさはダメだ、貧しさは救われるべきだ、という考えのように、
「富」にも「貧」にも、それぞれポジティブなイメージとネガティブなイメージがつきまといます。

世界的にみると、当然、極度の貧困は救われるべきでしょうし、そのためにできることをすべきだと思います。

ただ、先進国、とりわけ、日本においては、
貧富の差、富と貧しさは想像以上にあいまいになっているのだと感じるのです

かつて、とりわけ高度経済成長期以前の日本において、貧しさは文字通りの貧しさでした。
それは物質的な貧しさを指しているからです。

今では考えられないことでしょうが、携帯電話もなければ、エアコンもない、
カラーテレビも普及してなければ、マクドナルドもない(笑)、
スターバックスもなければ、自動車もあまりない、特にモノがなかったわけです。

その状況下では、貧しいということになるのでしょうか。
ただ、当事者がみなさん貧しいと思っていたかというと、疑問の余地があります。
特段、貧しいと意識することもなかったのではないでしょうか。

それは、富も貧しさも相対的なものだからです。
誰も携帯電話を持っていないから、別に貧しいと感じることもない。

みんな携帯電話を持っていて、自分には持つお金がなければ、貧しいと感じる。
そういうものでしょう。

バブル経済、IT時代を経て、現在に至るわけですが、富と貧のあいまいさは特に顕著になります。

富を持つことの価値が薄れてしまっているからです。

それは、端的に言えば、物質的な豊かさが満たされたからだと思います。

たとえば、年収3000万円の人と年収300万円の人をとってみて考えても、
どちらも携帯電話を持っているでしょうし、どちらもスターバックスには行けるわけです。
自動車も持っているかもしれませんし、マンションや一軒家住まいであったりするわけです。

違いは何かというと、スターバックスに行く頻度だったり、
自動車のブランドだったり、マンションや一軒家の立地や広さが若干異なるくらいなわけです。

重要なのは、ここに決定的な違いはないということです。

かつて、200年前の日本は江戸時代で、士農工商と分離しており、殿様は殿様で、平民は平民だったわけです。
たいがいがあばらやに住んで、今から考えれば、極貧な生活をしていたわけです。

しかし、今や、みんな平民なのです。
平民のなかで、政治家になる人もいれば、富を持つような人もいるわけです。

ただ、富を持っているからといって決定的に違うかというと、そうでもないわけです。

私自身、30代で年収3000万円の人300人調査をしましたし、
上場企業の経営者や数百億円の資産家の方ともお話させていただく機会がありました。

そういうなかで気づかされるのは、結局は人間なのだということです。

たとえば、偉い人だからといって、100人分の食事ができるわけはありません。
胃袋もふつうの人と同じものです。

また、フランス料理フルコースばかり食っていると、
カロリーオーバーで逆に不健康だったりするわけです。肥満になります。

そして、偉い人だからといって、バリバリの健康かというと、そうでもありません。
大病を患う人もいますし、ウツ病になる人もいます。
そして、私のようにぎっくり腰になってツラい思いをする人も多くいるわけです。

このように、一見、富と貧は両極にあるように見えるのですが、
実は意外にあいまいで、平らに近い状態であったりする
のです。

その大きな要因のひとつが、ビジネスという仕組みそのものです。
これが、平準化を促しています。

ビジネスという仕組みが貧富の差をあいまいにする

ビジネスは顧客の求める価値を高く提供し、無駄を省くことでコスト抑えて提供することです。

この高い価値をコスト効率的に提供するには、規模の経済を活用することが重要になってきます。
つまり、それなりのボリュームが必要なのです。

たとえば、フェラーリは超高級スポーツカーの代名詞で有名ですが、現在はフィアット傘下の会社になっています。
これは、フェラーリの生産台数が少なく、品質が低い状態だったことが原因で、フィアット傘下になることで、品質が向上したそうです。

つまり、フェラーリはボリュームが稼げず、品質が低くなってしまった。
反面、フィアットは低価格車を販売していましたが、ユニットボリュームを稼ぐことができ、
品質が高い状態で、コスト効率的な生産ができていたわけです。

これは社会的な側面からみれば、提供する価値の平準化を導くことになるのです。
単に価格が高いだけだと、コスト効率的な商品ではないわけなので、意外に低いクオリティだったりするわけです。

じゃあ、高い品質のモノを安く買うには、どういう選択が賢明かというと、
規模の経済を働かせて経営している会社の提供する商品を買うことが賢明
なわけなのです。

合理的な選択の果てに、平準化が待っているのです。

かくして、いいモノを安く買うという選択は、富を持っているからといって、
貧しい人と180度異なったことをしているわけではなくなってしまうわけです。

似たような感じになってしまうわけです。

そして、貧しいからといって、富を得られないわけではない。
つまり、一代で富を築けないわけではなく、多くの人が一代で富を築き、豊かになっています。

それは、今が貧しいことが将来も貧しいということを意味していないということでもあるのです。

富と貧。

それは両極を意味しているようで、実はあいまいで、近い存在のことを指しているのだと感じます。

そして、私は何のために生きるのか、という疑問をまた考えてしまうことになってしまいます。



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